独習の盲点 (10項目)

目次

1:語学の独習 

物事の習得には、1日や1週間、1年では、すぐにはマスターできないことがたくさんあります。

たとえば、語学の発音なんかもそうです。

ただ、YouTobeやDVD、CDを見せて、発音がよくなる、という事はありません。

音声学の学者たちが、様々な検証と分析を重ねて、

「THの発音は、舌先を上下の歯で少し噛んでから発音している!(あるいは歯に接触させる)」とか、

「Lの発音は、ちゃんと上の歯の裏に舌先を付けるだけで“ル”と言わない!」だとか

「Rは、舌先をどこにも接触させないように!」と言ったことを“発見”して行きました。

こうした事を言わなくても、無意識でやれる幼児は、

ネイティブ・スピーカーの子どもたちくらいだ!、と思いがちですが、そうではありません。

日本語でも、正しい発音を幼児に教える際は、目の前で、口の動きを見せながら発音しているものです。

「“ぴーしゃらら~”じゃない“ぴ~ひゃらら~”!」、「ひゃらら~!だぞ!」と言った調子です。

これが、英米人なら、「Rice (ご飯)!、no,no,no,not,Lice(違う、違う、シラミじゃない!)rice,rrrrrr,,,rice」と、面と向かって言っているのかも知れません。

2:武術の独習

世の中に「オタク」と呼ばれる人はたくさんいますが、技術事に関しては、やはり師匠がいなくては正しく学べないものです。

この系統の”オタク族”の最大の勘違いは、”知識の取得”と”技術”の取得”を混同していることです。

知識というのは、ちょっとばかり徹夜すれば、脳の中では蓄積するものですが、これが手足を使って、再現できるか、となるものは、全く別の脳回路なのです。

ジャズ理論も同じで、一カ月もあれば、中学生でも学べるものばかりです。

この音がテンションの9thである、という事は、譜面で知ることはできても、流れて来る歌や音を聴いて「あっ、このメロディ、9thだな!」とわかるまでには、時間がかかります。

(ちなみに「絶対音感」の人は、こうした聴き方をしません。「この音は”ミ”だよね!」という言い方をします。しかも、「ミとは言っても、♭したミだけど!」と言うかもしれません。詳しくは、ベストセラーとなった拙著「大人のための音感トレーニング本」(リットーミュージック社刊:上下風二冊ありますが、、)を読んで見て下さい。)

ここを勘違いして、懸命に知識を蓄積しているのですが、実際に必要情報は、”身体情報”なのです。実際に利用できる知識なのです。

身体を使って、”痛い目”に遭うことから、学ことが大事なのですが、何でも知識で補えると思っているわけです。

「キャッチボールというのは簡単。相手が投げたボールをキャッチすればいいだけなんだから!」という知識を得たとしても、実際に、そう簡単にできるわけはありません。

大事なのは、実践経験です。

武術関係では、実践経験の豊富さで、正しい方法を見つけて行くやり方があります。
「教科書ではこうだけど、実際には役に立たなかった!」という発見です。
この発見は、これまでの古典的教科書からすると「最新有効情報」となります。

実践経験豊富な師匠に師事する、という事は、こうした無駄な知識、情報、経験を省く手間があります。

それだけで、20年分の知識や経験が無用になったりするくらいです。

優秀な数学の先生は、分厚い問題集のどの問題をやれば十分かを選び抜き、集中力を利用して実践させることができますが、優秀じゃない先生は、ただただ、集中力を疲弊させる分厚い問題集をさせるだけです。それでいて、大して成績は上がりません。集中力を欠いた修行事は、ただの疲労にしかなりません。

経験から学ぶのは、量ではありません。その質が大事だからです。

しかし、技術事の世界では、そうした師匠もなし、実践経験もなし、ただ、ひたすら、雑誌や本を読むだけ、という知識や情報を中心とした「オタク的」学び方では、俗に言う「畳の上の水練」になってしまいます。

オタクでも、そうならない者もいるよ!、という人がいるなら、じゃあ、オタク全体の何パーセントが、そうならなかったのですか?

それは、先生についたのに、成功しなかった人とのパーセンテージとどれくらいの差がありますか?という比較が大事なポイントです。

たとえば、仮に、こんなデータだったりすると、、、

*オタクで成功した人、全体の1%

*先生について成功した人、全体の30%

となったりしたどうでしょう。これはあながち、的外れな推測でもありません。

日本全体のオタク量からすると、世に知られ有名になった人は、かなり頭脳明晰なタイプなので、オタクの中でもごくわずかです。(無名なオタクは、Amazon評などで熱心に酷評を書いていたりしますから、相当な数でしょう。”オタク町”までつくれるほどじゃないでしょうか?)

実際に泳ぐ機会もなく、畳の部屋で「泳ぎ方」の本を読んでいるわけです。
現在では、インターネット、YouTube学習、という事になるでしょうか。

もちろん、ある程度の実践経験がある人にとっては、そうした情報の良し悪しも判断できて、有効に活用する事ができます。

しかし、技術の活用、利用には、師匠からの学びと実践の両方からのバランスの取れた学び方が理想です。

オリンピックのコーチと選手の関係ですね。

結局、その方が、時間の節約になります。

天才モーツアルトにも師匠はいます。

師匠が実践家なら、弟子も実践家になり、師匠がオタクなら、弟子もオタクになります。

現在の格闘技全般の現状は、喧嘩に明け暮れた者が、本格的に格闘技を学び、一戦もしたことのない格闘技マニア30年?を1カ月で超えてしまうアウトロー出身者が席巻しています。

この事からも、いかに、”実践”こそが、最短距離で物事が習得できるか、とわかるはずです。

1カ月で、30年のマニアを超える、というのは、アニメ”ドラゴンボール”を見てもわかります。

闘いばかりの5歳児孫悟飯に、何十年も修行して来た大人たちは敵いません!

もちろん、一流選手は、そこからまた、実践体験をイメージしながら研究を重ねて行く人たちです。

実践→反省→稽古→実践、、、の繰り返しです。

武術の世界では、「3年独習するより、3年掛けて、良い師匠を見つけなさい!」ということわざもあるくらいです。

3:守破離(しゅ、は、り)の修行プロセス

ものごとの習得には、守(しゅ)、破(は)、離(り)、というステップ段階があります。

1:昔の「守」の段階

この段階は、師匠の言われた通り、何も疑わずに実践する初心の段階です。
昔で言えば、「落語を学びたいんですけど?弟子にして下さい!」「よし、わかった!まず便所掃除からだ!」というような世界です。

このことによって、その弟子の素直さ、忠誠心、実直さ、忍耐力、行動力、実践力、などなどを見ます。

自分が長年培って来た技術や芸を簡単に、よくわからない若者に伝授していいのか?、という、その資質を見るわけです。

料理の世界で言えば、その店の「味付け」でもあるわけです。
簡単に教えて、1週間後に、隣に店を出されては大変です。
昔は、そういう人たちがたくさんいたので、これを防ぐための防御システムだったのでしょう。

「よし、まず皿洗いからだ!」「よし、次は、ジャガイモの皮むきだ!」という修行です。

そうした事で、その仕事ぶりを見るわけです。
この段階で、「あれ?思った修行と違うな?」と思った若者は、すぐに辞めて行くでしょうから、手間が省けます。

これが武術の世界で言えば、「殺人技」を教えてしまうわけですから、その人の人間性を見なくてはいけないのは当然のことでしょう。

小説、芝居、映画などの世界では、よく師匠に反逆し、騙し打ちする悪者の兄弟子、そして師匠の仇討をする善良な弟弟子の話しは定番です。

弟子の性格を見るためには、大事な時期です。

2:今の「守(しゅ)」の段階

こうした昔の職人の「人を見る」という段階とは別に、すぐに、その技術を指導するスポーツや楽器修行で言えば、まず“正しいフォーム作り”になります。

音楽に限れば、この最初の段階で、すべてが決まるほどです。

まず、リズムの取り方をどう捉えるか、です、。

音楽の世界は、「まずリズムありき」で、すべてが始まります。

メトロノームに合わせるか、実際のレコードやCDに合わせるか、、、。

リズムに関しては、機会があれば、拙著「日本人のためのリズム感トレーニング理論」(2014年2月7日出版:リットーミュージック社刊)を読んで見て下さい。

最初に、何を“基礎”として求めるかは、師匠次第です。

様々な“先生”に出会い、その比較をすることで、色々な経験をすることで、その違いがわかるわけでです。

これは、ある原因不明な病気に掛かり、様々な医師に出会うのに似ています。

初めての診察で、治療して完治させる医師に出会うことは、大変ラッキーな名医との出会いですが、実際は、何年、何十年掛かってもなかなか完治できないことばかりです。

個人的には、様々な先生に出会い、それでもダメで、最後に私の教室に来て欲しいです。そうでないと、初めての先生が私だと、何を言ってもなかなか実践してくれませんから。他の先生で上手くなったなら、それはそれで幸運な出会いだと思います。

もちろん、その生徒自身に問題があるのか、これまでの先生の治療法?が悪いのかをまず”診察”しなければいけません。

3:インターネットによる「守」の学び


近年は、インターネット社会という事で、師匠に就いて学ぶ手間をインターネットが省いている、といいます。

果たして、そうでしょうか?

「ぶっこみジャパニーズ」というテレビ番組があります。

海外の人が日本の様々な文化的な産物である、蕎麦、寿司、舞踊、演歌などをYouTubeを見て学び、それを商売としている現場に、日本のプロの職人や歌手が乗り込んで、これを“成敗”?する、という番組です。

インターネット以前(1998~2000年以前?)の社会なら、その技術の本場の国へ渡り、直接、師匠の下で何年も修行を積んで、様々な職人の技術や芸を学んだりしなくては、物事は学べませんでした。

こうしたインターネット独習は、世界中で起きています。YouTubeは、見よう見まねで学ぶには便利な手段です。

しかし、正しい基礎力があれば、便利なのですが、初心の段階で見よう見まねで学ぶことは、後々、致命的な癖まで身に付けてしまいます。

世界のピアニストを見たことがない戦前の多くの日本のピアノ教育がこれで、世界に通用するピアニストが誕生するまでには、戦後に入っても多くの時間を要しました。

日本で、“天才ピアニスト”と絶賛された少女が、後年、米国にピアノ留学した際、一から学び直させられたエピソードは有名です。

当時、日本では、高く上げた指先で力強く鍵盤の一つ一つを打鍵するトレーニングが主流でしたが、米国では、指を高く上げる癖を無くすために、ゆっくりとしたテンポで、音階練習を何か月もさせられた、といいます。

(これは、クラシックピアニストの故・中村紘子さんのエピソードです。)

この指の動きは、ギター演奏でも同様です。
鍵盤や弦から指先をあまり離れないように弾くことが合理的奏法になります。

今の人で、もしも、指先を高く上げる人がいたら、「ああ、この人は独習だな、、先生から注意されたことがないんだな、、、、」ということがすぐにわかります。

何事も基礎が大事です。

楽器修行もスポーツでもスランプ、伸び悩みに陥ると、すぐに基礎練習に立ち返るのが、最善の脱出方法です。

“砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)”という言葉があります。

砂の上に何階もある建物を建てても、すぐに崩れてしまうので、これ以上は、伸びない、という譬えです。

「守」の段階は、高層ビルを建てる前に地面を掘り杭を打つ基礎の土木工事、と言えます。

今後、より高く伸びるために、より深く基礎を固めるわけです。

より高く上に跳ぶ前に、下に屈(かが)む、という行為です。

4:「破(は)」の段階

「破」は、「守」で学んだ基礎の応用の段階です。

数学の世界で言えば、「守」で学んだ公式を利用して、何か、日常的な問題を解いたり、より高度な問題を解いたりするわけです。

「今、時速60キロだから、35分前に50キロで出た車には、**分で追い着くな!」と言った、日常の問題の「応用」です。(算数の得意な人に答えは聞いて下さい!)

これは“出会い算”と“追いつき算”に分けられる「旅人算」の中の“追いつき算”と呼ばれる計算だそうです。

こうした問題は、基礎が無ければ、とてもとてもできないものです。

しかし、これは、「知識」の応用。

「知識」の応用は、インターネットでも可能かもしれませんが、前述の”武術の習得”で述べたように「技術」の応用は、そうは行きません。

これは、「水泳」の練習プロセスと同じです。

まず、水に顔を付けることができてから、潜る、ということが可能になり、そこから、少しずつ「泳ぐ」まで持って行くわけです。

そうしたプロセスを経て、「自由形(クロール)」「バタフライ」「平泳ぎ」「背泳」と“応用”して行くわけです。

特に、バタフライは、平泳ぎの「応用」から生まれた泳法ですから、その典型です。元は、同じ「平泳ぎ」でした。腕の動きが逆であることから、協議を重ね、分けられたといいます。

楽器修行で言えば、身に付けたフォームを利用して、様々な曲を弾いたりすることです。

ジャズ演奏の場合は、譜面を忠実に弾くだけではなく、“即興演奏”が主流ですから、咄嗟な動きに正しいフォームで対応するようになるために練習するようなものです。

これは、スポーツも同じです。正しいフォームを守りながら、臨機応変に対応しないといけない試合をするような世界です。

料理でいえば、実際のレシピを利用して料理を作る世界です。
出汁の取り方や、包丁の使い方は「守」の段階です。

*「守」を飛ばして、いきなり「破」に飛び込む人:

一般に、独習の人は、「守」の段階がなく、いきなり、この「破」の段階に入ることになります。

草野球、草サッカー?で、言えば、基本的な練習はさておき、いきなり試合ばかりするようなものです。

温泉卓球?も同様です。

もちろん、楽しさだけを追求したいなら、これで十分でしょう。

しかし、音楽の場合、下手の横好きの人の歌や演奏は、ちょっと周りを困らせるばかりですから、自分だけは愉しい、というわけにも行きません。

こういう人は多いです。

クラシックギターの名曲に「禁じられた遊び」という曲があります。

この曲を独習で弾く人は多いのですが、聴いている人が、ハラハラせずに弾ける人はなかなかいません。

とりあえず、終るのを待って、褒めるしかありません。

芸人殺すに刃物はいらず、お上手、お上手、三回言えばいい」ということで、芸は成長しませんが、だからと言って、「守」の段階を経ない趣味の人たちに対して、厳しい批評をするのも、ちょっと“無粋”な感じですし、、、。

正しい評価を受けたかったら、すべて有料観戦にしてみればいいわけですが、それでも、友人知人からの呼び掛け、となると毎回断れないものです。

もちろん、大半は、お酒目当てに行くとは思いますが、、、。
お酒もなく、ひたすらステージを見るだけ、となると、ちょっと、、、。

5:「離(り)」の段階

この段階は、武術でいえば「免許皆伝」の段階です。

独立して、新たな流派を作る段階です。

前述の平泳ぎから独立して「バタフライ」という種目を作ったのも「離」の段階と言えます。

平泳ぎの中でのバタフライは、平泳ぎの「応用」ですが、独立した種目となると「離」の段階に入った事になります。新たな種目の創造です。

ジャズの世界では、ウエス・モンゴメリーが好きでコピーしまくった!というのに、オクターブ奏法をほとんどやらない、パット・メセニーのような感じでしょうか。

ウエス・モンゴメリーを聴いて、あらたなスタイルを築いたのが、パット・メセニーと言いたいのですが、、、。

実際は、ジョン・アバークロンビーにパットは良く似ています。

ウエスは、パットより31歳年長、ジョンは、パットより10歳年長です。

「守」の段階で、ウエス・モンゴメリーを真似て、現在のパット・メセニーのスタイルを築いたなら、いきなり「離」の段階ですが、ジョンと比較すると、パットは、ジョンの応用ということで、「破」の段階かな、といえます。

音色も良く似ているスタイルです。

天才?パット・メセニーが35歳で、ようやく?出した、唯一の?ギタートリオによるジャズ・スタンダード・アルバム「Question and Answer(1989年録音)(Geffen) 1990年」と、その11年も前に出た、ジョン・アバークロンビーが、同じく35歳に出した「Direct Flight(1979)」を聴き比べてみましょう。

*Pat Metheny & Dave Holland – Question and Answer(1990)

Pat Metheny – guitar Dave Holland – bass Roy Haynes – drums

以下は、3人のプロフィールです。

*パット・メセニー:Pat Metheny、1954年8月12日 –

*ジョン・アバークロンビー:John Abercrombie、1944年12月16日 – 2017年8月22日

*ウェス・モンゴメリー:Wes Montgomery、1923年3月6日 – 1968年6月15日

尚、このパットとジョンの関係の具体的な指摘は、私の2017年4月9日のFacebook上での指摘が最初です。

それまでは、パットがデビューから主張し続けていたのは、「自分が一番、影響を受けたのは、ウエス・モンゴメリー」です。これが通説になっていました。それにしては、ウエスのようにオクターブ奏法をしない、という点で、感心していたのですが、、、。

私自身は、パットよりもジョンの方を早くから知って聴いていましたし、1979年は、21歳になる年でしたからジョンの「ダイレクト・フライト」ばかりを聴いていました。

4:師匠の存在

独習の盲点、というテーマで書いていますが、根本的な問題として、世の中には、ちゃんと物事を学びたい、という人と、何でもテキト~でいいんじゃないの?という人がいます。

これはもう、生まれ付きのものだと思います。

テキトーに物事を学んでも、ちゃんとプロとして生きてはいけます。

もちろん、それなりに、です。

そもそも、世の中の人は、普通、「あなたは下手だ!」と面と向かって批評されることはありませんから、何でも、テキトーに誰にも文句は言われません。

それは、テキト~にできる場所でしか披露しないからです。

夫婦でさえも、「これ、不味いなあ~!」とは言えませんが、これが商売となり、この料理をお金を取って食べさせるとなると、話は変わって来ます。

ちゃんと、その料理は、「美味しいのか、不味いのか」はっきりしなくてはいけません。

それは、誰が言う役目なのか?、ということになります。

その点からも、師匠やコーチがいることは、より高い“芸”のパフォーマンスを見せるための修行と言えます。

本当に弟子を成長させるのは、師匠の”ダメ出し”しかありません。

実際、多くの若手芸人を育てた、”明石家さんま”さんの”ダメ出し”は有名です。

5:芸と人気の関係

天才と言われる、モーツアルト、ベートーベンでさえも、ちゃんとした師匠はいます。

実際、物事を学ぶ、という事は、その人の「きちんと物事を学びたい!」という性格もあります。

芸事と言うのは、厳しい師匠、あるいは、先輩の“監視下”で伸びるものです。

「自分には、師匠なんていないし、自分は、自由にやっているよ!」という人がいるとしたら、

その人が、先生もいないということは、天才でもないとしたら、ただ単に、他の芸の免許皆伝者であとは趣味程度か、あるいは、人気を基準に生きている人かもしれません。(実力よりも人気!)

ただ単に、目立てばいいわけです。

しかし、民主主義社会では、「芸」を支えるのもまた、人々の支持次第ですから、人気も一つの存在理由となります。

どんなに質の高い芸でも、人々の支持がなければ、自然(人工?)淘汰され消えて行きます。

この点では、「芸」と「人気」は、切っても切れない関係にあると言えます。

「芸」の世界で言えば、凡人は、師匠もいない環境だと、一生、何十年も停滞し、何の進化も見られないまま、人生を送ることにしかなりません。

今いる自分の次元を、より高次の次元に引き上げてくれるのが、師匠であり、コーチであるわけです。
しかし、芸や技術は大した事がなくても、圧倒的な人気があれば、消えてなくなることはありません。

同じCDを1人の人が、10枚買えば、それは、10人のファンと同じ売上高になります。そんなファンが100にいれば、それは1000人に匹敵し、1000人いれば、1万人に匹敵します。

1万人いれば、10万人です。

昔は、芸の質を上げれば、存在できる、という事で質を磨きましたが、現代では、人気を上げることでも存在できる、という民主主義のシステムを最大限に利用した社会と言えます。

その芸の存在価値は、こうした人気と技術の両面からアプローチすることができる時代に入りました。

もちろん、両者のバランスはありますが、人気に自信のある人は、人気度で、芸のクオリティーの低さを補えばいいでしょう。

芸事のクオリティー度

芸のクオリティーの低さを人気で補えばいい、と前述しましたが、芸のレベルを下げることにより、クオリティーを下げることなく芸を披露する、というワザもあります。

難しい料理や曲にチャレンジするから、難しかったり、ミスしたりするわけです。

そのレベルを下げることによってクオリティを下げることなく、パフォーマンスすることはできます。

寿司よりはおにぎり。オムレツよりはスクランブルエッグ。

クラシックギターで言えば、「アルハンブラ宮殿の思い出」よりは、「禁じられた遊び」。

などと言った、求められる技術のレベルを下げることで、クオリティは保たれます。

4人でハモりながら歌うよりは、全員で、同じ音を歌うユニゾン唱法などで歌う方が、クオリティーは保たれるわけです。(ジャニーズ方式!?)

技術のレベルを下げる事で、クオリティーを保ち、その分、人気度を上げることにエネルギーを注ぐ、という戦略が可能になります。

6:独習の怖さ

独習で一番、怖いのは、熱心な人の場合です。
テキトーな人はいいんですが、熱心な人は、間違ったまま、何千回となく、稽古してしまい、どうしても治らない悪癖が身に付いてしまうことです。

「オタク」な人によくある現象です。

もの凄く英語の発音の悪い日本人ジャズ・シンガーがいたとしたら、その人の場合も同様で、誰もその事を指摘できないままキャリアを重ねてしまうわけです。悪い発音のまま、何億回?と歌っていますから。

「その発音、変だよ!」というネイティブ師匠を拒否した結果だと思います。
本当に実力があれば、師匠から、ちゃんと「もう君に教える事はない!免許皆伝だ!」と言われますから、自分を試すつもりでも、自信がある人は、学んでみるといいと思います。

昔の剣豪の世界では、様々な師匠を求めて、様々な流派を学ぶ武芸者もいましたが、早い者では、10日ほどで、免許皆伝を授かった人もいた、と言います。

こうした人の場合は、他流派ながら、最初から、その師匠を越えていたのではないか、と思います。

教える側からすると、そういう人に自流の免許皆伝を与えることにより、より自流が広まるのではないか、と思ったのではないでしょうか。

ギターの世界でも、様々なスタイルがありますから、クラシック・ギタリストがフラメンコ・ギターを学んだり、ロック・ギタリストが、ジャズ・ギターを学んだり、ジャズギタリストが、カントリー・ギターを学んだり、と様々な流派を学ぶことができます。

それと似たような世界だったのでしょう。武器術となると、鎖鎌から手裏剣、縄術と、様々にありますから、、、

師匠を持たない、他人から学んだ経験がない、という事は、私からすると、不思議な存在です。

もちろん、それで成功した人は、すでに、その道での“先生”として存在していいとは思います。

しかし、本当に天才を分析、調査して行くと、やっぱり、最初は、ちゃんと先生に就いて学んでいる経歴がありますが、早くから免許皆伝となっています。

才能が豊であれば、すぐに免許皆伝となるとは思います。

現在、活躍中の将棋の中学3年生の藤井聡太君を見て、つくづく思います。

*将棋 藤井聡太五段 棋戦初優勝 六段昇段

2018年2月17日 19時04分

中学生の将棋棋士、藤井聡太五段が17日、羽生善治二冠らトップ棋士2人を連破して、トーナメント戦で初優勝しました。藤井さんは同時に中学生として初の六段になり、60年以上更新されていなかった棋戦の優勝と六段昇段の最年少記録を塗り替えました。

*藤井聡太:

7:先生と生徒の関係

アスリートとコーチ

武術の世界では、「3年独習するより、3年掛けても良い先生を探せ!」という教えがありますが、スポーツの世界のアスリートとコーチというのは、非常に密接で、優勝は、すべて優秀なコーチに掛かっている、と言っても過言ではありません。

アスリートと監督やコーチの関係は、複雑で、様々な問題があったりします。

団体競技の選手と監督、コーチの関係と、個人競技の監督とコーチの関係とはまた微妙に違います。

団体競技には、サッカーや、野球、アメリカン・フットボール、バレーボールなどがあり、個人競技には、すぐに浮かぶのは、フィギュア・スケートです。コーチ料も高いですし。

その次は、マラソンや水泳、といった競技でしょう。
しかし、マラソンや水泳は、一つのチームのメンバーを見ているので、フィギュア選手とコーチの関係とは、かなり違いがあります。

指導料を惜しまない。

まず、大事な事は、優秀なコーチは、それなりに、それだけの報酬を要求するものです。
それだけの実績があるからです。

私自身の経験で言えば、ある高校生が、私の元に学びに来た時に、致命傷とも言えるくらいのリズム感と、楽器を弾く際の癖がありました。

結局、私は、週一程度のレッスンでは、これを治せませんでした。
彼は、ギターを始めた中学1年の時、私の3分の1ほどの月謝で教える先生の教室に通っていたからです。

その先生は、プロとして鳴らした先生と言うのでもなく、アマチュアーのロック好きが、様々なアマチュアーバンドを経て、生活のためにと、ロック・ギター教室を開いたわけです。

3年の月日を経て、私の所に来た時には、悪癖の塊りのような弾き方で、まず、これをどう“治療”しようか悩んだものです。

お米の研ぎ水と幼児教育

今の時代は、“無洗米”が主流なのか、お米を水で洗う手間暇が省けますが、お米を洗う際、一番、最初の水は、水道水より、きれいな濾過した水がいい、と言います。

普通は、お米を付けておく水がきれいであらばいいかな、と思いますが、お米は、最初の水で、十分に水分を吸収してしまうから、その最初の水を水道水にしてしまうと、お米の吸収された水は、ほぼ水道水になります。

その状態で、きれいに水にお米を付けても、あまり意味がない、といいます。

最初に学ぶ、先生は、このお米を洗う時に水のように、非常に大切な役割をします。

幼児教育のピアノ教室の世界では、幼児の段階が安価な月謝で、小学生に上がる内に、月謝が上がる、というのが、通常の教室営業システムですが、本当は、幼児の内が、高い月謝で、それから、小学生に進級するに従い、月謝が下がる、というのが、理想的なシステムなのです。

もちろん、こうしたシステムは、幼児の両親も含めての啓蒙が必要なので、簡単には行きません。

幼児の内が、一番高い!というシステムですね。

しかし、これを語学で言う「発音」と考えて見れば、わかります。
最初の学んだ、教師の「発音」が、そのまま、幼児の記憶として残るわけです。

この事から、物事を学ぶ、最初の段階で、“お金を使って”一流を教える、という事は、非常に重要な事です。

この考え方を一般の人に普及させるのは、あと50年くらい掛かる、かもしれませんが、、、。

楽器でも、マラソンのシューズでも、まず、高級な品物は、弾きやすく、走りやすく、使いやすいのです。

そのため、挫折する事がかなり減るわけです。

安い楽器は、弾きにくいのです。

だから、挫折も早いのです。

初めての「沖縄そば」

初めて食べた「沖縄そば」が、不味かった、という事で、「沖縄そばが嫌い」という観光客もいる、と聞きます。

しかし、これは、「蕎麦好き」を公言する県民に多く、そもそもが、「沖縄そば」は、名前こそ「そば」ですが、以下の理由げ原因でしょう。

「そばとは呼ぶが蕎麦粉は一切使われず小麦粉のみで作られ、かんすい(かん水)または伝統的に薪を燃やして作った灰汁を加えて打たれる。製法的には中華麺と同一であり、公正競争規約の上でも「中華めん」に分類されているが、麺は一般に太めで和風のだしを用いることもあって、その味や食感はラーメンよりむしろ肉うどんなどに類似する。」

この場合は、食べた食堂の「沖縄そば」が、不味かった、というよりも、「蕎麦」というものの固定概念が影響したための批評だとは思います。
インドへ行って「これは、ライスカレーじゃない!」というような感じでしょうか。

*沖縄そば:

8:教師と商売人道

個人的な見解を述べれば、昔、今から、20年くらい前、私の教室に「ギター教師になりたいから」という人が、学びに来ました。既婚者で、私よりも10歳くらい若いのですが、私は、昔から、この考え方が好きではありません。

ミュージシャンの世界で、プレーヤー(演者)よりも、指導者を最初から選ぶ、という事が納得がいかなかったからです。

人前での演奏に憧れて、ミュージシャン、プレーヤーになるのではないか?、

それと並行して、その技術を教えるために、「教師」となるのではないか、とそれまでは、思っていたわけです。

しかし、それなのに、最初から、人々の上に立つ「指導者」を目指す、という事はどういうことなのか、と、、、。

もちろん、現代では、泳げない学者が、水泳選手をコーチする、という理論面からのコーチングも盛んです。

また、野球はサッカーで、自分自身は、選手としては一流でなかった監督によるコーチングで、チームを優勝に導いた例も枚挙にいとまがありません。

物事を指導するための「指導業」「監督業」というのは、存在します。

簡単に言えば、「コーチング業」ですね。
こうした事に関しては、「スポーツ心理学」の学習も必要なわけです。

プレーヤーとして一流だったからと言って、その選手が、こうした事まで学ぶ気はないかもしれません。

こうした事は、「名プレーヤー、名指導者ならず」ということわざがありますが、具体的には、こうした、選手育成の心理学を学んでいるか、です。

ちょうど、これは、子育てにも似ているかもしれません。

親自身が優秀だからと、子どもまで優秀になる、とは限りませんが、それは、すてべ、親自身のコーチングの問題だとは思います。DNAの問題ではないと思います。

それだけ、人を育てるコーチングは、大事な技術です。

暴力で、従わせる、という行為は、まさに、独裁国家が取るコーチングでしかありません。

一応、私も「教室稼業」ですから、「演奏家よりも指導者になりたい!」という生徒を拒否する理由もありません。

現在は、YouTubeの時代ですから、「先生稼業」をしたいなら、自分の演奏をもっと、公開して、先生を選ぶ際の判断“資料”にしてくれたらいいと思います。

ここで、私の「商売人」として「教室稼業」をしている事に触れて置きます。

私が、教室稼業をしているのは、当然、「営利目的」のためです。

そこに、私は、「商人道(あきんど・どう)」を敷いています。

「商人(あきんど)は、しょせん、人の為、世の為ではなく、自分の営利目的のために商売をしているに過ぎない。しかし、だからこそ、お客様へは、誠意を持って、尽くしたい!」というものです。

私は、ボランティアで、無料で教えることもありませんし、自分の演奏に対しても、教えることに関しても、できるだけ“高額”な金額を要求したい、とは思います。

その分、私は、この報酬に見合うように、全身全霊で、「誠意」を持ったプレイや、レッスンをしたい!と心がけて来ました。

この思いは、教室を始めた25歳の頃の気持ちと、来年(2019年)、還暦を迎えるらしい、現在の自分の気持ちと、なんら変わりはありません。

「えっ?来年は、26歳ではなくて、還暦、60歳なのか!」という感じです。

どうぞ、物事を学ぶのに、安価だから、という基準を持たないで下さい。

まず、一番に考える事は、その先生の「実績」を重んじて下さい。

もちろん、この段階では、その先生の「性格」「人格」といった人となりは、不明ですが、一応、ちゃんとした先生は、ちゃんとした「実績」を持っているものです。

9:先生を変える、セカンド・オピニオン?

最近、(2018年3月5日現在)、オリンピックの女子レスリングのS師匠とかつての弟子でオリンピック4連覇を成し遂げたI選手との間で、パワハラ問題が話題となっています。

指導者S監督は、高校生の段階から、有能な選手をスカウトし、芸能プロダクションの社長のように自分の家に下宿させてまでして指導し、様々な大会を優勝させ、オリンピックの女子の金メダリストを輩出する業績を上げています。

そもそもからして、女子レスリング人口は、現在の時点(2018年3月現在)で、全国でも500人程度。男子は、1万人程度、というのが現状です。

男子の世界のアマ・レスリングの世界に、まだ、オリンピックの正式種目でない段階から、女子レスリングをここまで作り上げたのが、S監督と言います。(女子レスリングがオリンピック種目になったのは、2004年より)

この努力が実り、以後、名指導者として数々のオリンピック選手を生み出しています。

こうしたスポーツ界の師弟関係と、ジャズの師弟関係が同じか?という事をまず、考えないといけません。

オリンピックを目指すスポーツの世界と比較して、オリンピックもない“ジャズ”の世界で、指導者を変えるって?どういう事だろう、と考えて見ます。

一度、金メダルを獲った、という事は、一度、世界に君臨した!、という事です。(I女史は、S監督の下では、オリンピック二連覇)

こうした“師弟問題”は、様々なジャンルでのケースを見て行かないといけません。

ジャズの世界では、そうした金メダルもなく、何の名誉?もないのに、指導者を変えるって、ことは、どいういう事だろう、となります。

恐らく、その生徒は、「この先生に就いたけど、思ったより上手くならなかった!」という事以外にありません。

これは、スポーツの世界の「この先生の指導では勝てない!」とは、かなり方向性が違うものです。(指導メソッド以外の指導者の性格的な問題は、ここでは考慮しないことにします。)

「なかなか上手くならない!」という問題は、先生が悪いのか、生徒が悪いのか、という検証が必要です。

指導者の言う通りの練習をしなかった結果の「上手くならなかった!」という逆切れ?なのか、はたまた、言う事を聞いて、練習したけど、ダメだった、という、真っ当な異議申し立て?なのか。

この問題は、ちょっとダイエット指導と似ているかもしれません。

言われた通りの運動量と摂取カロリーをちゃんと守っていたか、否かは、本人のみが知っていることです。

しかし、もしも、ゴールに至るための課題があり、それをクリアーしたにも限らず、上手くならない、というのなら、これは指導者の責任になるでしょう。

ジャズの場合で言えば、「自由に、リズム的にもスイングしたアドリブができるようになりたい!」というのがゴールです。

これは、よく語学に例えられます。

「自由に発音も良く、外国語を喋って見たい」というのが外国語習得のゴールです。

このために、いろんなメソッドを唱える指導者がいるわけです。

こうしたメソッドの違いの場合、まずは、そのメソッドに従い、その課題をある程度の結果を出した上で、指導者のメソッドを判断した方がよいでしょう。
語学のメソッドと比較して見ましょう。

「自由に、スイングしたアドリブする」「自由に発音も良く、外国語を喋る」というゴールに向かって、指導者により様々なメソッドが存在しているのが現実です。

「単語力をつけろ!」「フレーズ(ジャズの)を覚えろ!」と言った事から、「文章を暗記しろ!」「名人のアドリブを暗記しろ!」とか、「文法を強化せよ!」「理論を強化せよ!」とか、「まずフォニックス(音声)をマスターせよ!」「まず、リズムをマスターせよ!」といった事から、、「まず、習うより慣れろ!実践が大事!外国に行け!」と、様々です。

こうした様々なメソッドに対して、ある程度は、そのメソッドに従い実践し、その結果を出す事は可能だと思います。

それでも、これでは、願望したゴールに近づけないと判断したなら、指導者を代えたらいいと思います。

しかし、ジャズ学習の場合、「自由にリズムも良く、アドリブができるようになりたい!」というゴールであっても、どのレベルまでのアドリブ力なのか?という事はあります。

“ジャム・セッションに出られるレベルまで!”とか、“プロとしてお金が取れるレベルまで!”とか、“CDが出せるまで!”だとか、そこまで行くなら、“ファンができるレベルまで!”という様々なレベルまでの願望はあると思います。

そうした貪欲な願望に従い、指導者を変えることはあると思いますが、物事の修行は、最初の基礎が肝心です。
最初から、ある程度の高度なところまで到達できる指導者を選ぶ方が、取り返しのつかないことにならないためにも良い方法でしょう。

この意味で、武道の世界などでは、「3年独習するよりも、3年掛かっても優秀な先生を探せ!」ということが言われるわけです。

10:習い事の先生と生徒

小学校、中学校、高校、大学、といった、国家が定めた人生の軌道の「レール上」の先生と、気まぐれに師事した先生とは全く違います。

これは、全く、義務ではありません。本人の意志の問題ですから。

学習塾の教師は、基本的に「レール上」の一環ですが、趣味の世界の先生と生徒は、違います。

ひょっとしたら、先生も「聖人君子」でないかもしれませんが、生徒自身も、どんな生徒は、わかりません。

習い事の師弟関係は、その習い事に興味がなくなれば、師弟関係もそれまでの関係です。

生徒自身が、その事に興味のある内は、“先生”ですが、興味がなくなれば、“只の中年”というのが、先生の宿命です。

まさに“一期一会”の関係と言えるでしょう。

こうした関係で大事なことは、先生側であれ、生徒側であれ、お互いの“人間性”の勝負だと思います。

自分の人生に於いて、必要のなかったな、と思う先生?との縁が切れたなら一生、そのまま人生を終えればいいし、あるいは、少しは、自分の人生に役立った先生かな、と思えば、たまには、お酒を贈るなり、、、、これは、人それぞれの問題だとは思います。

しかし、学校の先生であっても、その恩は、亡くなってからしかわからなかったりしますよね。

あれから、20年経ったけど、あの先生には、恩がある、という話しとかですね。

まあ、先生のお葬式に、駆けつけられたら、いいんじゃないか、とは思います。

それだけ、趣味の世界の先生というは、人生に於いて、薄い存在だとは思います。

その程度の関係ではあるとは思います。

だからこそ、お互い、一期一会に掛けた「誠意」を示す関係だとは、思います。

先生は、教え方で「誠意」を示し、生徒は、その報酬で「誠意」を見せればいい「一期一会」の良い関係だと思います。

以上、「独習の盲点」2018年3月5日

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