今から(2020年11月現在)から19年も前ですから、42歳の時に書いた文章です。加筆して掲載しました。
リニューアルするホームページに掲載するにあたって、改めて読みなおしてみると、あれからずっと同じ事を言い続けている自分に気づきました。この内容を伝えるにあたって、当時の選んだ文体のまま掲載しておきます。行間は、当時と違い、スマホなどもありますから詰めています。
私の演奏は、YouTubeチャンネル:58guitarclub にあります。登録お願いしま~す!🙇
ピアノで「エリーゼのために」が弾ける?
不思議な現象が音楽教育の世界で何十年にもわたって繰り返されている。音大にまで行ってクラシック.ピアノを習った、と言う者たちである。
私では弾けない「エリーゼのために」や「乙女の祈り」は弾けるか?と訊(き)いた。「弾ける」と誰しも答える。
それは簡単なのか? と訊(き)く。「簡単だ」と答える。
では弾いて見てくれ、と頼んで見る。すると,、いとも簡単に弾いてしまう。ミスする事もない。
ふ~ん、と感心する。では、その曲をレコーディングして発売できるか?と訊く。
そんな事はできない、と答える。
じゃあ、この曲だけを弾いたなら世界的なピアニストとして名乗る事ができるか?と訊く。
そんな事はできるわけがない、と答える。
それはおかしい、と返す。だって、その演奏には、何のミスもなくちゃんと弾けるんだから
それで世界中ではトップの演奏家と変わりがないんじゃないか?
と言うと、でも、一流の音楽家はもっと技量があるし、 私なんかでは太刀(たち)打ちできない、と返答してくる。
不可思議である。
ミスもなく「エリーゼのために」を弾く、だけどこれでも一流演奏家にはかなわない、という事が、である。 同じテンポ、という条件でもだ。
しかし、一流演奏家だって「エリーゼのために」を弾くのには そんなに技量はいらないはずではないか?
だったらその曲に必要な技量はみんな同じではないか、一流も三流も変わらないではないか、と言ってみる。
ああ、それでは 一流は技量に恐ろしく余裕(よゆう)があるから「エリーゼのために」を弾くと一般のピアニストと違うのかな、と言ってみる。
しかし、それにしても 「エリーゼのために」を弾くには、それくらいの技量で十分のような気がするのだが、と思案する。
バイエル”くらい簡単?、ギターで「禁じられた遊び」も?
じゃあ、「バイエル.ピアノ教本」はどうだ?
「バイエル教本」をレコーディングして、それでなら世界の一流ピアニストにもひけをとらない演奏ができるだろ?と訊く。
それも自信がない、と言う。
ますますわけがわからない。「バイエル.ピアノ教本」程度の曲は、音大でピアノを学んだ者なら目をつぶっても弾けるはずだ。 それなのにこれでも一流ピアニストにはかなわない、と言うのだ。
ミスもなく、目をつぶって弾けるほどの技量しかない曲ではないか。
それでは、この事に対してもっと自信を持てるようになる修行とはどんなものか。もっともっと技量的にむつかしい曲を 弾けるようになれば、「バイエル教本」の曲や「エリーゼのために」と言った曲をレコーディングして、世界の一流の仲間に入れるのか、と訊く。
それでも自信がない、という。
それでは、 簡単な曲を弾くためにむつかしい技量の曲を弾く、というやり方では、いつまで経っても自信はつかないんだね?、と確認する。
これは一体どういう現象だろう?毎年、何万人と言う音大出のピアニストが輩出される。 その中の誰もが、バイエルは簡単だといい、「エリーゼのために」や「乙女の祈り」を弾くのにもわけがない、と答える。
それではと、「簡単だ」、と言うコメントにふさわしい状況を設定して上げる。
その曲で、世界へ出れないのか、と言う案である。 技術的にはなんら問題はないはずではないか。何年も楽器の修行を続けても、初級の曲さえもちゃんとした演奏ができない、と言う事である。
誰でもよい、それだけで世界の一流ピアニストの仲間入りはできないのか?不可能だ、と言うのなら、一流と呼ばれる者とは何が違うのか。
簡単な曲なのに、なぜ、レコーディングする自信はないのか?
これは論理的に大変おかしな帰結である。おかしな帰結に至る、という事は、その発端(ほったん)からして大前提が既におかしいのだ。
一流の演奏家はすぐれた技量(技巧)を持っている、
という先入観である。
「バイエル教本」、「エリーゼのために」「乙女(おとめ)の祈り」と言った曲でさえ録音したり、コンサートで独奏して聴衆を感動させたり、という事ができないんだからそれ以上の技量を必要とする難曲なんか弾いたら」聴けたもんじゃないんではないだろうか?
私のギターでも不思議な体験をいつもしている。
コンサートでは、超絶(ちょうぜつ)技巧(ぎこう)を要求される曲を披露(ひろう)して見せる「天才」が多々いるのだが、余興(よきょう)に、と誰でも知っているであろう「禁じられた遊び」をよく定番で演奏して見せる。
ところが、この「禁じられた遊び」がどういうわけか、大変つまらない曲のように響くのだ。
あれ?この曲こんなに退屈な曲だったのだろうか? と奇妙な展開に唖然(あぜん)とする事がしばしばある。
ひょっとして、 超絶技巧」を要する曲は、ただ自分では弾けないからびっくりしていたんじゃないだろうか、と、さっきまで唸(うな)っていた自分を怪(あや)しんで見る。
こうした体験から、注意して簡単な曲を演奏する「プロ」を観察するようになった。するとやっぱり難曲を平然と弾いて見せるプロの中にも、誰でも弾けそうな曲が、「退屈」だ、という者がいるのである。
とすれば、ひょっとしてプロとアマの差は、
プロは一応、アマが弾けない曲が弾ける、
と言う違いだけではないか、と思えるのである。
チェロの伝説の偉人、カザルスの”鳥の歌”
しかしまた、そうしたプロの中でも「巨匠(きょしょう)」
と呼ばれる超一流の音楽家は、皆んな何を弾かせてもすばらしいのである。
それは、晩年のカザルス「パブロ・カザルス(Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals, 1876年12月29日 – 1973年10月22日)」スペイン、チェロ奏者、指揮者、作曲家 96歳没
自らの生誕を讃(たた)えるコンサートへのお返しに、と、 最後にヨボヨボとなったカザルスが舞台へ上がり、スペイン民謡の「鳥の唄」を弾き出したあの感動的なハプニング演奏でさえ、である。
何度映像を見ても、全身総毛立つほどの「感動」のシーンであった。
涙、涙でテレビのスイッチが見えず
翌日までテレビが消せなかったほどである、、、、、、、。
これは、1971年、カザルス94歳?(国連スピーチ)、40年ぶりにチェロを弾いた、と言っています。後半のサビの部分が切れてしまっているのが残念ですが、、、。
「鳥の歌」完全収録版(1961年)85歳?
20代の時に目撃した、この映像の感動を私自身は、このような形で、1995年にライブ演奏で表現しました。
これは、アコースティックギターで、ディズニーの名曲「星に願いを」をでのジャズ演奏した直後ですから、かなり極端な差ですが、、。私のYouTubeチャンネル:58guitarclubから。
何かがおかしい音楽教育
どうやら、これは根本的に音楽教育がおかしいのではないか、と思われるのである。
いくら大量に音大出のピアニストを増産させても、 誰もそのピアニストの演奏をわざわざ金を払ってまで聴きたくない、としたら何て悲しい音楽人生だろう。
せいぜいできる事は、誰も真剣に耳を傾けていない騒々しい場で「おじゃまになりませぬように、、、」 と人知れず弾いて見せる事しかできないBGM業である。
「おお、そなたは、そんな所におったのか!」と気づく者があったとしても目的は音楽ではない。「なかなかいい演奏ではないか」、等と適当な事を並べ立てたとしても、「いえいえ、私は、何の賞にも恵まれずに来たものでございます、どうか私の事はお忘れになって下さいませ、、、」 と言うのみ。
長い間の日陰の人生ですっかりおじけづいて自己を卑下(ひげ)してばかりで埒(らち)が明かず。こうしたシーンが今も日本のどこかで展開されている。 これではあまりにも哀れな音楽人生である。
なぜ、こうなってしまったんだろう。
せめて、一曲だけでも、自信を持って世界へ向かい「民よ、人々よ、見なさい、聴きなさい、これが、これが私です、
私は、これ以外の何ものでもありませぬ!」と宣言できる曲はないのだろうか。
今でこそ、こんな主婦になってしまったがバイエルの27番を弾かせたら私は誰にも負けないわ。というような発言は、ありえない事ではない。
なぜなら、これが「目玉焼き」であれば、何だか自慢する主婦はいそうである。何でも一、二度聴いて、すぐに模倣に取りかかるせっかちな日本人は、じっくりと音楽を「聴く」と言う事が理解できない者ばかりである。
音楽の原理:Ⅰ音の1音の縦軸と横軸
「音をつなげる」という現象には二つの「無限」の側面がある。
縦(たて)軸(じく)には、まず「強度(きょうど)」、音の強さ弱さ、である。これは「無限」である。ピアニシモ、フォルティシモと言った記号とも少し違う。
これは音楽全体にかかる表現である。私が言うのは、一音のみにかかる無限の「強度」である。
一体、この音はどれくらいの強さで弾かれたのであろう、 という強弱である。
頭に、豆腐(とうふ)でも乗っけて包丁で切ってもらえばよい。いかに達人と同様な「強度」をコントロールする事が大切であるかがわかるであろう。これを的確に指示する「譜面」は存在しない。しいて考え出せば、各音符の上に「強度67.5」等といちいち添えなくてはいけない。
次に現れる要素は、横軸としての「揺(ゆ)れ」である。
子供が無邪気に手拍子を打つとする。あるいは、未開の地に住む音楽好きな老人が叩く太鼓(たいこ)のリズムでもよい。 これを正確に書き留める「譜面」も存在しない。めんどくさいから、全部4分音符にしてしまえ! とせっかちな譜面ができ上がる。
以上の縦軸としての「強度」、横軸としての「揺れ」から、少なくとも二つの連続する音は構成されている。これを完全に再現する事は せっかちな譜面を求める「左脳(言語脳)」では無理である。
しかし不可能な事ではない。 「右脳(音楽脳)」に委(ゆだ)ねるのである。どうやって?
只管(ひたすら)聴き続ける、のである。 毎日、毎日、一切の「再生願望」を控(ひか)え、聴き続けるのである。
するとしばらくして、あるいは何年かして、その音が頭の中で「再現」 されて行くようになる。その時に初めてあなたは、実際に弾いてみた自分の行為に対して「違うなあ」 と言う批評が自分自身で下せるのである。あなたは、二つの音の
「強度」と「揺れ」を 記憶してしまったのである。
二つの音をこうしてようやく記憶したあなたは、後は、ただひたすらその頭の中に響く音を再現しようと日夜工夫して見るのである。
「なんでやねん!」
う~ん、どうもオレの大阪弁は変だなあ、 と特訓が始るのである。
「なんでやねん!」う~む、 「や」がまだ違う!「なんでやねん!」くそ!「で」が速すぎた!
「なんでやねん!」
こ、これだ!
後は、これをいつでもすぐに出せるかだな、、、。
音楽性とは、
音楽性とはこうした強度、揺れ、を基礎に、「哲学」「思考」「感覚」「感受性」「何を伝えたいのか」「どういう風に弾こうか」等の様々な「無限」の要素を加えた結果の「産物」なのである。
一つの詩をどのように朗読するか、という思考と全く同じ行為なのだ。
音楽かには「ドレミファソラシド」という音階がある。役者には「あいうえお」という言葉がある。
マンガ「ガラスの仮面」(美内すずえ、日本の少女漫画作品。1976年~未完:2014年9月の時点で累計発行部数が5000万部を突破)でも、この「あいうえお」の言葉だけを発しストーリーを組み立てた北島マヤは、見事な演技を見せ人々を感動させていたではないか。 『何十年も前に読んだので、うろ覚えだから本当かどうかは保証はできないが、、、。(これの元は、ある日本の役者の海外公演でのエピソードである。相当に古い話しだ)
「あ」という言葉で言えば、「あ~。」「あっ!」「ああ」「あっ、、、。」、、、と言った具合である。
一体全体、なぜこうも無感動な音楽を奏(かな)でるクラシック経験者ばかりを輩出して来たのだろうか? こうしたクラシック教育は、ジャズ教育の基礎ともなっている。
暴言?を吐く。
「ドレミファソラシド」を弾いて人々を感動させられない者は、何を弾いても同じである。 「エリーゼのために」を弾くどころではない。すべてが音大受験のためのせっかち教育のために次から次へ課題を終えて行った結果、最終的に何を弾いても
「退屈」で「せっかち」で「無感動」な演奏スタイルが生まれ、 誰も、金を払ってまで聴きたいと思わない演奏をするようになってしまったのである。
ここらで本気でこうしたクラシック教育の在り方を変えないと、 哀れなクラシック演奏家が街に氾濫(はんらん)して行くだけである。
まずいラーメン屋のラーメンは何を食ってもまずい、と再三、私は、言っているではないか。
いくら「新メニュー」を開発しても、もともとの「出汁(だし)」がまずいのであるから何を作っても同じである。新メニューを考え出す前に、一つでもよいから旨(うま)い一品(いっぴん)を完成させる事ではないか?
ジャズで言えば、難曲「ドナリー」なら弾けるが、「サテンドール」は簡単過ぎて嫌だ、と言う者に同じだ。「枯葉」なんて今さら、、、。
本当か、おい!そんなに簡単なら、それだけ弾いて世界に出ていけばいいじゃないか!
一流とは、
素人の中にあっても抜きん出た「センス=音楽性」を示す者である。
誰でも作る「チャーハン」で勝負できる事が中華料理人の腕の見せ所である。
私は、何かと言えば、
何年経ても3つ程度のハーモニーしか覚えないピアノ教本「バイエル」をけなしている。
他のハーモニーは「大人になってからね」と言わんばかりである。そして「バイエル」に代わる教本として、林 光(はやし ひかる、1931年10月22日 – 2012年1月5日:作曲家)の労作「林光/ピアノ教本」(全音楽譜出版社、1976年) を提唱している。
こうした「簡単だ」と思われる課題の模範演奏を誰かやってみればよい。そこに「感動」がなければ、それは曲のせいではない。あなたの「演奏」が悪いのである。
楽器と音楽の危険な関係
もし、絶品の「味噌(みそ)ラーメン」を作れる者がいるとする。これしかできない、と言ったとする。他のラーメンができないとしこういう料理人にこそ、例え、土下座(どげざ)してでも、「お願いだから醤油(しょうゆ)ラーメンを作ってくれないか」と懇願(こんがん)する価値はある。
その研ぎすまされた”味覚 ”で、フフフ、そこまでおっしゃるなら、、、 と取りかかってくれるであろう。
好きか嫌いかなんかどうでもよいから私の嫌いな「サテン.ドール」でも弾いてみろ。
嫌いでも弾く事はある。 弾いたかぎりは、「音楽」にしなくてはいけない。味付けは様々で、時と場合による。
伝統風から変態風まで様々である。伝統風の客ばかりであれば「変態風」にする、という自分の質(たち)にしたがっているだけである。
なぜなら、こうでもしなけりゃ一生自分を隠して生きていかなければいけないからである。
当然、変態好きの前では「伝統風」でいく。彼等は、「伝統」の修行に費やされた年月の重みがわからないからである。 誰でも簡単に「自己流」で弾けば「個性」だと考えている。
「芸」の判別は、それに一体どれくらいの技量と思考と年月が費やされたか、にある。明日から誰でも「再現」できるものは、「芸」ではない。単なる、ストレス解消である。
何、ドナリーなら弾ける?
いいよ、おまえの演奏なんか。
えっ?私?((-_-;))
この名人の演奏で十分だ!
ジョー・パス(Joe Pass 1929年1月13日 – 1994年5月23日)
ニルス・ペーターゼン(ニルス・ペテルセン、Nils Petersen, 1988年12月6日 – )
それじゃあ「猫ふんじゃった」弾いてみろ。それでオレを感動させて見ろ。
それができなきゃ、この先何を覚えてもあなたの演奏からは何も生まれない。 だってあなたは、ピアノという楽器を弾いているんで、「音楽」を弾いているわけではない。
おまえだってそうだ、ギターという楽器をいじくっているだけで、 「音楽」を表現しているわけではない。
えっ?私?((-_-;))
その証拠に、その楽器をやってない者、あるいは楽器自体に興味がない者からは相手にされない。
音楽っていいですね、ではない。あなたにとっては、ピアノっていいですね、ギターってすごいですね、である。 ますます狭い四畳半の世界へと互いが屯(たむろ)して行くのである。ここにもまた楽器別のアイデンティティー抗争がある。
狭い世界よのお、相変わらず、日本人よ!(パプア.ニューギニアの事は知らないが)
まるで、互いを「差別」しあっている部落のようである。そこに人間社会が現れない以上、「音楽社会」も生まれない。楽器を始めたとたんに他の楽器への差別が始り無関心となる。ここにも政治の世界同様の「派閥」が誕生する。
互いが「音楽」という世界の構築を目指した時、そこには楽器という派閥を容易に越えていかなくては到底、到達できない宇宙(極楽浄土)がある。意識の「ペレストロイカ(建て直し)」なくしては不可能である。
様々な民族の世界を知る事により「世界」が見えて来るのである。しかし現状は何たる事か!それぞれが楽器という名の民族を形成した、派閥ごとに密閉(みっぺい)された伝承の歴史から解脱(げだつ)せねば、「音楽世界」は現れない。
「音楽」を構築するためには、小賢(こざか)しい一民族の方法論だけではどうする事もできないのである。
様々な民族を知り、様々な楽器を知り(民族楽器のみの事ではない。普通の洋楽器も含む。民族楽器ばかりで洋楽器の知識がない者もパス!単なるナマケモノである)、
一体、どのような理念を持ってそれぞれが「音の世界」を構築しようとしているのかをまず「観察」する事である。それが、その一民族にしか通用しない「理念」であれば無視すればよい。
素材としての曲、楽曲の在り方、これからの?コンクール
ここに一つの「曲」があったとする。
音楽となる前に、まず「楽曲」と呼べ、と言うのなら呼べばよい。大切な事は、あなたは、その曲で何を表現したいのか、その曲から何を感じたか、という事である。
したがい、「曲」というものは、ある程度、”誰が演奏しても作曲者が創造した「世界」が出現する ための共通の材料”、という定義を与える事もできる。 誰が弾いても再現できる「最大公約数」的前提がある。
あるいは、料理の食材とも言える。ああ、あの食材なら、ある程度は旨(うま)い料理ができるであろう、という前提である。しかし、あまりにその食材に頼ってごまかしてばかりいては、料理の腕は一向に上がらない。
「卵」の味は、食べなくてもほぼ完全に予想はつく。「エリーゼのために」をミスなく弾く事は、すでにある程度の「卵」に相当する。そこから先が腕の見せ所なのである。
その段階をクリアーせず、次から次へと何の「思考」もなく、グレード.アップして行っている、という錯覚を与え続けて来た音楽教育にこそ問題なのだ。
これくらいのメソッドを持った幼児教育から始めなければ、この「終りなき闘い」は結末を見ない。
音大を出て、「エリーゼのために」すら自慢の一品となれず、何ら「売り物」にもなれず、まして身銭(みぜに)をきってまで 見物するほどの代物(しろもの)でない、としたら、それはあまりにも悲しい音楽人生ではないか。
誰か企画すればよい。
プロ、アマ問わず「エリーゼのために大会」!プロ、アマ問わず「乙女(おとめ)の祈り大会」!プロ、アマ問わず「チャーハン大会」!プロ、アマ問わず「禁じられた遊び大会」!
賞金は、100万円だ。
スポンサーは、日本音楽性振興協会、だ。
これでようやくアマ.プロ入り乱れての「音楽性コンテスト」が実現する。プロが必ず優勝する、という保障はない。 「ドレミファソラシドだけで泣かす会」会員募集。等々、、、。
すべての音楽はここから始るのである。”プロなら練習でも金を取れる事だね”『バーニー.ケッセル(ジャズ.ギター)より。』
もっと凄いのもある。「私は例え10時間弾いても同じフレーズは弾かないね」である。私が苦手なギタリストであるがりっぱな箴言(しんげん)である。
(苦手だから、よく聴いたけど、、、。苦手だった理由は、ちょっと「古臭~い」感じのノリだったから。しかし、この”ノリ”こそ一番の薬になった!)
黒澤 明(くろさわ あきら、1910年(明治43年)3月23日 – 1998年(平成10年)96日:映画監督、脚本家。黒澤明監督の映画「生きる」、スピルバーグの「激突」をもう一度見るべきである。 巨匠は、金がなくてもちゃんと「名作」を制作してしまうのである。(あればあったで、「どれだけ湯水(ゆみず)のように使えるか」という事にこだわるのである。 )
才能ある人は、皆んな、あるもので十分、才能を発揮しているのである。
基本的に私はパソコンが無くとも書き続けて来た。こうした意味不明な主張をである。使えない音色ばっかりのできそこないのシンセとコンピュータで第3集「作編曲編」を完成させたのである。
この所、何かとコマーシャルを忘れない自分の貧乏が悲しいのである。
さあ、今日からあなただけの「エリーゼのために」の料理に取りかかりなさい。
そして、 生涯をかけて、それを世界に誇りなさい。
それは、あなただけが表現できる世界なのであるから、誰も文句は言えまい。
ワン&オンリーですね。 それが、長い間、忘れていた誰の物真似でもない「あなた」自身ですよ。するとようやくまわりが言い出しますよ。他の曲も聴いて見たい、てね。
「音楽」なめたらあかんですよ。「楽器」なんてぇのは「音楽」の前に跪(ひざまず)く、永遠(えいえん)の下僕(げぼく)でげすよ。
これも違いますかあ?
すでに有名になった人しか認めない権威主義者のミーハー様方へ
ゆえに、あなたと私は生涯無縁の関係 なり。
無名の音楽家を代表して
一無名のギタリストより。
後記:2001年11月13日(火)
このテーマでまとめたこの一文は、音楽教育界に革命を起こすであろう。
起こさない、とすれば伝統教育に青春の大半を費やした不幸なセミ.プロ演奏家を今後も大量に輩出し続けるであろう。
パキスタンでは、数キロ先の戦場の爆音を聞きながら遊園地に興(きょう)じる親子がいる。
戦争が日常の地に生まれればそうした「気晴らし」が普通だと言う。
なるほど。よくわかる。それで今回はちょっと「気晴らし」で、音楽界の最重要事項の話しをしてみたのである。
音楽家は島崎藤村の「破戒」くらいは読んでおくべきです。あなたがやっている事はそれと全く同じなのですからね。
2001年11月13日(火)午前5時30分
後記2:(2020年 11月 3日未明)
この記事を書いてから19年。
3年ほど前か、この記事を某生徒が、あるフリーメーソン・ジャズギター愛好会のFacebookで紹介したところ、某有名私立大学出身の60代後半の社長が、「何だこの記事は!調べてみたら、こいつは、ネットを騒がしてる奴じゃないか!」と反論投稿。これに対して、5000人に近い会員が、さわらむ神に祟りなし?とスルー。まるで、電車内で突然、暴言を吐いて暴る乗客にみんなスルーしている感じ。
私の記事をシェアした会員くらいは養護しろよ!と思いましたが、この社長に、ひとり「いいね!」をしたのが、全国から、何と、私と同郷の東京在住者のジャズ愛好家。私を知ってて賛同したのか否かはわかりませんでしたが、、。
しかし、社長と同世代風の男性が、「老害!」と唯一、一言コメント。社長は、今度は、これに噛みつく。私は、この顛末を知り「ああ、これがフリーメーソン・ジャズギター愛好家の世界だな」と納得。
こんな老人が会員として君臨?している、ジャズギター愛好家団体は、いらんなあ、と。
歳を取ると、権威には媚びますが、自分より偉い年下は、なかなか認めないものです。
音楽性は、プレイヤーはもちろんですが、リスナー側にも当然、求められるものです。
「老害」も、反面教師となり、勉強になりました。
その後、プライベートな話ですが、傍若無人な社長でみんなに嫌われている人がいて、この人のFacebookを見たら、あの社長と同じ、有名私立大学出身でした。
この大学の社長に関しては、偏見?を持つようにはなりました。
共通点は、とにかく威張っていんですねぇ。
別に、そんな人たち、お客さんにも必要ないですし、そもそも、私は、そうした人たちが出入りする”高級(ホステス?)クラブ”でのBGM演奏が、嫌いで逃げて来た”抜け忍”です。
(”抜け忍”は、白土三平Z「しらと・さんぺいの漫画『カムイ伝』(1964-197)より。(忍者組織から逃げ出した逃亡忍者のことです。私は、これを「BGM業専門バンドマン」からの抜け忍、という言葉で使っています。)
2020年 11月 3日未明
追記:番外、人物編 2020 11/3
上原 ひろみ(うえはら ひろみ、Hiromi Uehara、1979年3月26日 – )
圧倒的なスイング感です。
上原ひろみの秘密は、ここにあります。
難しい音階も関係ありません。
どうやら、高校時代に、リスナーが求めている”ジャズの本質を”見切った”ようです。
一流のSWINGER(スインガー?)は、こうしたシンプルな曲を弾かせると、その秘密がわかります。
音楽は、まず”リズム先にありき”というのがよくわかる動画です。
まさに、巨匠、Duke Elington の”スイングしなきゃ意味がない!(”It Don’t Mean A Thing」)を実証しています。
日本人が苦手なBOUCE(バウンス)するリズムに、彼女は、常に真っ向勝負で挑んでいて、今や、このスイング感は、本家の欧米人をも凌駕するほどです。
もちろん、速弾きも彼女の武器ですが、これもまた、”粒の立った”ごきげんな速弾きです。しかし、彼女は、この武器を出さなくても十分、観客をごきげんにしてしまう事ができるほどのスイング力を持っています。
彼女が弾くフレーズを音符にしても、彼女の本質はわからないと思います。彼女は、スイングの人だからです。
ギラッド・ヘクセルマン(Gilad Hekselman, 1983年 – )はイスラエル出身のジャズギタリスト。
これは、近年の若手ギタリストの中では、衝撃的な演奏でしょう。
ここでの演奏の数倍も速く弾くことのできるギタリストは、星の数ほどいるでしょう。しかし、こうはなりません。こんなギターを弾きたいからと、速弾きの練習も無意味です。
こうしたプレイは、ハーモニー感を磨くことが大事です。ベーシストの音に対してのハーモニーを意識した1音1音が、こういう世界を作り出します。
しかし、日本人が大好きな、このフレーズをコピーする事もまた、無意味です。まして、プロ志向なら、”そっくりさん”は、通用しません(国内でだけなら、いくらでもそっくりさんはOK!ですが、、)。根本的な意味での”そっくりさん”ではありません。表面だけを真似ても応用は利きません。
自然や周りの環境に反応して踊っている舞踏家の動きを、動きだけ切り取り真似しても意味がないのに同じです。