絶対音感は、あった方がよいのか?ない方がよいのか?という議論がその昔、展開されました。この先もずっと続くでしょう。
では、どちらなのか、と問われれば、そりゃーあった方が、よい。
これで終りではない。たぶん、私が、「ない!断じてない!」から、ある人を「罪人」に仕立て上げるであろう。
しかし、それでは、この議論は、永遠に終らない。また、誰かが、酔ったいきおいでからみ出す。終いには、「そんなこと言われても、あるんだからしょうがないじゃない~!」と泣き出してしまわれても困る。
これは、本意じゃない。なぜなら、絶対音感がある人には美人が多いからだ。女性と決めつけているが総じて女性に多い。念のために言っておくが、ない人にも「かわいい人」はいる。
上手く使い分ければよい。男で、もしあったとしたら、あなたがギターなら、一曲毎に音を聞けばよい。「今、合ってるか?」「今はどうだ?」と「オレは音には厳しいのだ!」というふりをして聞けばよい。
そのうち「もうかんべんしてくれ、いちいちうるさい!」と叱られる。
これでもう文句も言えなくなる。「言わなかったおまえが悪いんだからな」とそいつのせいにすればよい。
およそ、「能力」と名がつくのは、ないよりはあった方がよい。
これで終ったわけでもない。問題はその有無ではないのである。
それは、何時の時代であっても「それを鼻にかけていばっている者」の事である。
さらに、その能力を持っている者が「天才に、最も、庶民より近い人」だと教え込まれた庶民の常識感にある。
『今度、入った新しい店員、「絶対音感」があるらしいわよ~!』とすぐに助さん角さん役を買って出るホステス兼シンガ-が必ずいる。
ホステス兼シンガ-連に無視された腹いせに、「あんな奴、階段から突き飛ばして見たらオレだとバレるか知らん?」と思わせてしまう付帯状況も発生する。
「すごいわよ、音楽聞いて、さっとその場で譜面にしてたのよ~!」と告げて来る者もいる。
「ちっ!いらぬ報告を」と、今まで音楽の事で『天下を極め、下々の「王」』となって君臨していた者には奴が「モーツアルト」に見えてくる。
すると、突然、自分には「サリエリ」の霊が「憑依」してしまう。
彼の霊は、そこら中に隠れていて、常に、「オレの気持ちがわかった奴」と言って、「で?どうする?」とうれしそうに耳もとで囁いてくる。
そこへ突然、視界を遮られ無視された私の「守護霊」が「オレを無視するなあ~」と言っていきなりサリエリの霊に殴りかかる。
「ひゃあ~殴られてはたまらん~」とサリエリの霊は、「おまえなんか、オレよりもずーと才能ないわい!ば~か!」とつばを吐きながら捨て台詞を言いつつ逃げて行く(「**方面へ」とはもう言わない。)
やれやれ、である。「抜本的な解決であったのか」は、はなはだ疑問であるが、とりあえず「ふ~ん、絶対音感ねえ~」と冷静に聞いている自分にもどる。
「ゼッタイオンカン」とは、まず、コップを叩いてその音を当てる能力である。
これが一番の「びっくり芸」である。
しかし、そう簡単には当てない。大抵、「う~ん」とうずくまり、「ファのシャープ!」と人によっては、もう別の話題に変わっている最中に答える者もいる。
せっかく当ててもらったのに悪いのだが、そこで正解を知っているのは誰もいない。
とりあえず「お~!」と皆で言う。
私はすかさず「こいつぁ~便利だぜ」と内心ほくそ笑む。こいつの使い道はないか?と頼まれてもいないのに、考える。
「どうだ、その特技を活かして(「特技」じゃないってば!)何か商売をやって見たら、と思うのだが?」と持ちかける。
「能力」は役に立ってこそ、能力なのだ。役に立たなければ、「この、まぬけが!」と通常、親方に叱られる。
こうして、大概の者は、「カラオケ制作所」に売られて行く。
発売前のCDをいち早く取り寄せ、ひとつひとつの楽器をシンセサイザーに置き換え、「カラオケ」を作成し出荷するのだ。
これがあるとないでは、その仕事の手際が違う。「ゼッタイオンカン」のない者が、1曲終えた頃には、もう3曲目に手をかけている。
ひよこのオスメスを判別する能力よりは遅い。
大抵の音楽家は、庶民が崇拝する「絶対音感」というものが音楽を創造するのに大してそう便利ではない、ことを知っている。
よく、演歌の作曲家が「旅先でふと思い浮かんで、、、」と「オレはある!」と匂わす。
(大抵は、歌手上がりなので、唄いながら歩いているのだろう)
しかし、これは内緒だが、器楽曲の作曲家の大半が「音痴」の部類にやや足を入れている。
なぜかと言えば、いつも黙って1日中、楽器ばかり弾いているから、急に唄い出して見ると、トンデモない所から声がでてしまうのだ。
そうして人前で唄ってしまい失敗した大作曲家の例にはことかかない。
大指揮者のカラヤンでさえ、この「トンデモ声」を出して、パートのまちがいを指摘してしまったという。
思っている音と出て来るくる音が、日頃、怠惰にしている声帯ではコントロールが利かないのだ。
だから、思っている音も出て来た音もすべて「的をはずしている」通常の「音痴」とは似て非なるものだが、庶民にはわからない。
庶民は、常に、自分と同じ能力を発見する事が「生き甲斐」である。
世の中には、無限に音が存在する。
では一体、なぜ、その中から12音しか、西洋人は選ばなかったのだろうか?
インド音楽は、さらに倍くらいの音に分けられている。それが出せる楽器も発明された。
アラビア人などは、半音をさらに4等分した音程を聞き分けると言うが、これは、あやしい。
「等分」と言う言葉があやしい。
音を等分するなんて、当時はそんな、「等分器」などないはずだ。
あやしんでいると、これは日本にもある「こぶし」の事だという。
日本の演歌や民謡の「こぶし」も半音の間を揺れ動いているという。
「揺れ動いている」はずなのに、例の絶対音感種族はいつものように「吐き気」をもよおさない。
なぜ、吐き気が起きないのか、を観察していると、どうやら「揺れ」が止まった所が、ぴったり、半音の境界線上であるかららしい。
その線上で一瞬、音が「ひと休み」するようだ。
これはたぶん比較的止まっている、という事で判別しやすいのだろう。
しかし、もし、この、止まっている所が少しでも線上を越えたら、また「吐き気」がやってくるらしい。
「らしい」と言ってはいるが、実際にいちいち聞いたわけではない。「推理」しているわけだ。いちいち調べていては、何年も経ってしまう。
最大の理由は、「そうすることが好きだから」、、だが、一応調べても同じである。
とにかく「統計学」からも文句をいわれては先に進めない。
「12」という数字を聞くと、すぐに私は、「キリスト最期の晩餐会」を思い出す。
あの「12人の使徒」の事だ。
途中、「これは手品だ!インチキだ!」と言って逃げ出したユダという男がいたが、「ユダ」の言うことは信じるな!と聖書ではきつく戒めている。
聖書を読むと、ユダが憎くなってくるが、ローマ法皇は、今年2000年にユダヤ人に対して「わりい、わりい」と謝罪した。
何が悪かったのかは、よくわからないが、とにかく謝罪は済んだはずだ。
この「12」という数字は、あちこちでよく聞く。
試しに、「広辞苑」で「12」を引くと、
12因縁、12因縁絵巻、12運、12音楽、十二階(冠位十二階)、十二書、十二客、十二月、十二月党、十二雀、十二宮、と11個もある。(あと1個!)
『2002年10月7日(月)、このページを書いてから一年9ヶ月を経て、突然、匿名の新読者より「十二単(じゅうに.ひとえ)」を入れて、12個にならないか、とメールが来たので、「十二単」を追加しておく』
どうやら、深い意味がありそうだが、省略しよう。
とにかく「12」なのである。
流行っていたのかも知れない。
ラッキーナンバーである。
俗に、1オクターブを「ピタゴラスの定理」によって計算して「12等分の平均律」にしたと言っている。
しかし、このピタゴラスは、歴史上何の「法則」も発見していない、インチキ秘密結社のリーダーだったらしい。
「すべての現象は有理数で表せる」という一派でオカルト集団だったらしい。
「無理数」(例えば「ルート」等)が現れてもずーと弟子に言い張っていたらしい。(気よつけよう~っと!)
少しでも、世間で話題の無理数の話しをするとその弟子を崖から突き落としたらしい。
殺人集団でもあったが、後に他のオカルト集団に追われ行方不明になったということだ。
「あのピタゴラスには到底理解できない定理」という事で、その名が付いた、と「びっくり数学裏話」と言うような、社会人用の「中学数学」というような本を立ち読みしてわかった。
1日も早くこのことを誰かに言いたかったが、誰に自慢してよいかわからないのでそのままにしていたがこれですっきりした。
話しはそれたが、このピタゴラスは、音楽の勉強をしていると必ず出て来た「えら~い人」だったので、ショックを受けると思ったが、思わず「ざま~みろ」とつぶやいていた。
何がざま~みろかわからないが、とにかくすっきりした。
200012/29
後にこの話はベストセラーとなった「大人のための音感トレーニング本」(2011 年4月25日:リットーミュージック社刊)シリーズへの執筆へと発展しました。